第1話 阪神地区に都市高速道路を建設
自動車専用道路の整備へ
昭和30(1955)年代、我が国は戦後復興期から高度成長期に突入した。神武景気・岩戸景気を追い風に、経済活動は活況を呈したが、それに伴って自動車交通量は急増。とくに東京・大阪などの大都市圏では交通事情は悪化の一途をたどった。そこで、大都市における交通の円滑化を図る抜本的対策として期待されたのが、自動車と歩行者の交通を分離するとともに、平面交差を無くした自動車専用道路の整備であった。
昭和31(1956)年に道路整備特別措置法が全面改正されて、公団方式による有料道路整備が採用され「日本道路公団」が設立。続いて、昭和34(1959)年の道路法改正により自動車専用道路に関する規定が設けられて、東京及び周辺地域で有料の自動車専用道路を建設・管理する主体として、同年6月に「首都高速道路公団」が設立された。
阪神地区に新公団設立
いっぽう、阪神地区の道路整備状況は首都圏以上に悪く、交通渋滞が慢性化して地域の産業・経済に重大な影響を与えていた。この危機を打開するために、建設省近畿地方建設局(現・国土交通省近畿地方整備局)を中心に大阪府・市、その他道路関係の行政機関が集まり昭和34(1959)年9月に「阪神地区高速道路協議会」を結成。計画路線案、整備手法、事業主体等についての議論を重ねて、独自の高速道路計画案を作成した。
このような動きの結果、昭和36(1961)年度に阪神地区高速道路計画として200億円の事業費が日本道路公団の枠の中で認められた。これを受けて、事業主体を早急に決める必要が生じ、協議会では資金面・工事施工上などの観点から大阪での新公団設立を目指す。しかし、政府には「大阪その他の主要都市における有料道路事業は、できる限り日本道路公団で行う」との意向があったことから、協議会の希望は実現困難に思えた。
昭和35(1960)年8月には「阪神地区高速道路建設促進連盟」が結成され、折しも大阪市北部一帯を巻き込んだ「北大阪の10時間交通マヒ(*1)」騒動などもあった中で、阪神地区の政財官が一体となり、関係機関に高速道路の早期建設と新公団設立を強力に働きかけた。促進連盟の会長は、左藤大阪府知事。神戸市の原口市長と一緒に熱心に陳情し、当時の池田勇人首相、中村梅吉建設大臣にも直接、「速やかに大阪に公団を設立してほしい」と訴えたのである。
そして、昭和36(1961)年12月28日。この日、政府予算において、ついに「阪神高速道路公団」の設置が決定したのであった。
(*1)昭和35年10月6日、大阪市の北部一帯を巻き込んだ大渋滞が起こった。御堂筋などの幹線道路から、普段は車の通らない生活道路まで、渋滞して動けない自動車で埋まってしまう異常事態となった。
(参考:大阪市HP、デジタルギャラリー2008)
(2014.3.28掲載)