復旧へと立ち向かった人々の記録 From the Outbreak of the Earthquake to the Full Restoration

"1月17日"という長い1日

これは、阪神高速道路公団(当時)の
社内報(平成7年3月号)に職員が寄稿した手記を
引用・編集したものです。

「7人とも床に転がった」

1月16日、休日の昼食時。私のもっとも嫌いな事務所から「出勤せよ」との電話があり、急ぎの書類作成のために所長以下徹夜で取り組んでいた。思い返せば、これが私の震災応急対策勤務の始まりであった。
17日午前5時半ごろ、会議室で最後の書類確認をすべく椅子に座った瞬間、ドーンという大音響とともに体が浮いた感じで、マスの中の炒り豆のように7人が床に転がった。「揺り戻しがあるぞ」と誰かが叫び、そのまま床に座り込んだまま、第二波を迎えたが、その恐怖のほうが大きかった。
建物の非常用サイレンが鳴り、事務所の机やロッカー類が散乱した中、一瞬の静けさが訪れた。手にケガをした所長以下の一団が、9階から階段を飛ぶように降り、1階フロアーから庁舎外へ。

「高速道路がゆがんで見えた」

点検は、京橋から西が副所長、東が私に割り当てられた。指令台の機能がマヒしているため、連絡方法は黄パトに常備されている携帯無線機だ。自転車にまたがり庁舎を出た途端、ハーバーランド付近の高速道路がゆがんで見え、最初のショックを受ける。
税関前の交差点では、ローラー支承のローラーが路上に散乱、支承の残骸を拾い集め、無線で連絡。コンクリート脚の柱基部座屈を発見、連絡して野帳に記入する。浜手幹線上に散乱する支承の残骸の集積作業はあきらめ、先へ進む。

「ピルツ倒壊現場であ然」

深江のピルツ倒壊現場では、信じられない光景にあ然とさせられた。倒壊した橋梁にはさまれた大型トラック、バスを目撃する。警官らが懸命の救出作業中だった。
任務とはいえ、複雑な心境で先へ急ぐ。国道43号では、緊急車の他にも路面の段差を乗り越えて一般車の往来が目立つようになる。

「急ぎ帰社せよ」の無線

武庫川歩道専用橋を越えると、目視出来る被害は極端に少なくなり、元気さを回復して尼崎東に向かう。途中、結果を本社に報告するため帰社するよう無線が入った。
早朝から自分一人の判断で調査を進めていたが、報告が待たれていることを認識し、尼崎営業所を折り返し点に、帰路は下り線を足早に調査、帰ることに専念する。この時、43号の起伏の多さ、沿道の報道陣の多さに気づきながら自転車のペダルを漕ぐ。京橋の庁舎に到着した時は、出発した時と同じくらい薄闇となり、夕暮れが迫っていた。

「再び現場へ」

次に命じられたのは、JR鷹取高架橋の損傷現場での現場確認であり、今回は黄パトによる出動。
長田付近ではまだ火災が続いており、交差点に入るたびに一人が降りて赤色棒で誘導しながら進む。夜空を焦がす火炎と点滅する緊急車両の赤色灯のみが、印象に残っている。翌日からは、ピルツ現場への出動が決まったが、この日、何時に休息したか、記憶が定かでない。
私の人生の中で、最も長い一日であった。

野帳

震災直後に自転車で高速道路の点検に回り、橋脚や橋桁などの被災状況を記しました。

野帳