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復旧へと立ち向かった人々の記憶 - それぞれの大震災

兵庫県南部地震の被害から、
復旧へと立ち向かった人々の記録

それぞれの大震災

これは、「大震災を乗り越えて ー震災復旧工事誌ー 阪神高速道路公団」の寄稿文から、引用・編集したものです。

大震災 写真

「応急復旧時苦労したこと」

(株)鴻池組(震災時) 西畑 章

震災直後の応急復旧工事で何を苦労したかといえば、工事はもちろん、食料・水・自動車・バイクなどの確保に、通常の工事とは比較にならない苦労をしました。当社の場合、神戸の災害復旧対策本部へは、大阪本店から職員を応援するとともに、大阪から1日2便、トラックで、弁当・水・缶詰・下着などを運搬しました。職員だけでなく現場作業員にも弁当を配給し、夜間工事で冷え切った体を暖めてもらいつつ、食事、休憩をとってもらいました。

「震災直後からの補修基地の対応」

スバル興業(株)(震災時) 竹田 秀光

基地業者の職員は、常日頃から台風・大雨・凍結・交通事故による通行止など、何かあれば出勤し、家族にとって家に居て欲しい時も会社に行かなければなりません。今回の地震では、当社の社員や家族はたまたま誰も負傷しなかったから良かったものの、自宅が全・半壊した者も、自分のことはさておき、復旧に参加し、寝る暇も惜しんで働いてくれました。

「簡単に総括できぬ623日」

神戸線復旧建設部工事課長(復旧時) 幸 和範

当時は全員が、責任感と緊張と恐怖のなかで、緊急輸送路確保という目標に全身全霊を注ぎ突き進んでいた。緊急対策が終了した2月10日に復旧第3班に引継ぎを行った。やっと開放されるという安堵感を覚えながらも、これからの苦闘を思うと、彼らにかけるべき言葉が見つからなかった。5月16日に復旧建設部工事課長としてその戦列に参加するとは露知らず。平成8年9月30日正午の全線開通は、某ラジオ局のスタジオでインタビューを受けながら迎えた。マスコミ各社の賞賛の報道のなかで、この623日はそう簡単に総括できるものではないんやで、と独り言を言っている自分があった。